“まずいな、もう40分も遅れている”
池袋に降り立った時には夜は深く、池袋という街の本質的な部分を知るにはちょうど良い時間帯に差し掛かっていた。
普段から残業は多い方だったが、今日に限って仕事が山積している状態だったのはなんだかの法則、マーフィーの法則だったか。
どうやったって人生において大事な日には何か起きる。
自分の中でのそのルールすら全人類の良くある事になってしまうのだろう。
社会人が残業して待ち合わせに遅刻する
この世の良くある事から抹消してほしいことの一つに今認定させてやろう。
ああ、もう、
どうでも良い考えを巡らせる暇があるのならば
遅れてきたことを
如何に誤魔化せるのか、如何に劇的な幕引きへと事態を収束させられる様シナリオを描いていこう。
彼女はもう既にあのバーでカクテルを飲み始めているであろう。
彼女はいつもそうだ。
一杯目にはエールビールを頼む。
「どんなエールビールだって良いのよ、その店の味わいだから。
ただそこに何かの意志を感じるの。
エールビールなんて取らなくてもお店は続く。
そこにこそ、そこのお店の精神的な真理を感じるの。
だからこそ私はここのお店が好きだわ。」
彼女の発する言動は常に美しい。
ヴェートーヴェンの交響曲の奇数曲を聴いているような心地よさがある。
“深く美しい。”
彼女を形容するならばこの言葉であろう。
だからこそ私は彼女の使う言動
彼女の飲むカクテル
一挙一投足に魅了されてしまうのだろう。
もうきっと二杯目を飲み終わる頃であろう
“バイオレットフィズ、酸味が少し強いと嬉しいです”
自分がカクテルの“カの字”も知らない頃に出会った彼女に
バーの全てを教わった。
僕のルーティンは
ジントニック、そしてジンフィズ。
彼女のバイオレットフィズに影響を受けて飲み始めた。
初めて頼んだ時は
隣を意識しながら、大人になったつもりで注文してみた。
今考えれば全てお見通しなのだろう。
今まで僕が味わったことのない包容力のある表情で微笑んでくれた。
だから彼女は美しい。
全てを理解している真理なのだろうか。
「すまない。約束の時間から随分と遅れてしまった。残業が今日の今日で増えてしまってね。 怒っているかい?」
ほの暗いバーの中にはお客が三人ほど、手前で飲んでいる二人はどうやら何かについて話しているようだった。
目に止まった先に引き込まれるように視線が誘導させられる。
角に彼女は一人虚ろに残り少ないロンググラスを傾けていた。
「大丈夫よ。二杯目を飲んだところ。いつもトペースは同じよ。
それよりもお仕事お疲れ様。今日に限ってなんてマーフィーの法則ね。
さて、あなたはジントニックで大丈夫かしら、私はもう決まっているわよ。」
やれやれ、かなわないな。
僕の考えることなんてお見通しなのに
彼女の考えることは何もわからない。
「ゴトウさん、すみません。ジントニックとコスモポリタンを下さい。」
三杯目も決まっている。
コスモポリタン。
彼女にぴったりのカクテルだ。
彼女の瞳の中に宇宙を感じる。
ハッピーバースデー
今宵はあなたに何光年近づけるのだろう。
コスモポリタン
ウォッカ
クランベリージュース
コアントロー
ライム